主観か客観か

どうも、ボールペンは0.7㎜派、四扇イドラです。

今回のテーマは人狼ゲームにおける「主観」と「客観」についてです。

 

人狼の誰それが強い弱い論争なり、初心者に対するアドバイスなりで登場することの多い「主観」と「客観」。しかしながら、その使われ方は必ずしも一致しておらず、かえって論争が複雑怪奇なものになったりもします。

ということで、「主観」と「客観」についての整理を試みたいと思います。

(記事の最後に重要な余談と称してもっとも実用的な整理をしていますので、そこだけでもごらんください)

 

あらかじめ書いておきますが、この記事では「人狼でどのようなプレイを心掛けるべきか」みたいな内容には触れませんので、ご安心ください。

 

1.具体的な情報を分類してみる

人狼ゲームでは議論のなかで様々な情報が飛び交います。というより、発言の全趣旨によって白黒を判断してよいわけですから、総ての発言は情報となります。

(仕草や表情も情報となりえますが、非言語的なものはいったん置いておきます。)

それらの情報をひとまとめに論じようとすると混乱しますから、ここでいったん類型化しようと思います。

 

次の場合を想定してみてください。

議論が開始し、10秒後にAが霊能CO、その後60秒経過後にBも霊能CO。

この状況で、発言は以下のように分類できましょう。

 

「霊能2COですね」:事実

「Aが先にCOしました」:事実

「BのCOが遅かった」:評価

「あとからCOした方が偽に見える」:理論

「Bが偽っぽい」:評価

「Bを吊りたい」:主張

「霊能2COはローラーした方が強い」:理論

「霊能ローラーしたい」:主張

 

「事実」は、文字通り実際にあった事柄です。

「評価」は、その「事実」に対する意味づけという把握でよいでしょう。

「主張」は、ここでは進行上の提案、ないし意思の表明、くらいに思っていただければ大丈夫です。

そして「理論」は……ここでは定義をペンディングにしましょう。後述します。いったん、評価と評価、ないし評価と主張を結ぶ思考プロセスだと思っていてください。

 

ということで、人狼ゲーム上の情報を「事実」「評価」「主張」「理論」の4つに分類できるというところまでを飲み込んでいただいて次の議論に進みます。

 

2.真に客観的なのは

「主観」と「客観」についての議論を進めるためには、ここで明記しておく必要があるでしょう。

もし「客観」を誰からしても明らかなこと、ないし当然に共有できることと定義するのであれば、真に客観的な情報は「事実」に限られます。

(というのは大変にズルい論法で、客観的に捉えることのできる情報を「事実」と名付けて定義したのですから、当たり前の話です。)

 

何を言いたいかというと、「評価」は「主観」情報であるということ。

そして、「評価」と「事実」の区別は難しいということ。

 

さて、ここで東京タワーをイメージしてください。検索して写真を見てくださってもかまいません。

東京タワーが東京都にあるというのは「事実」といえます。

東京タワーがオシャレであるというのが「評価」というのも問題なさそうです。

では、東京タワーが赤いというのはどうでしょう。あるいは高いというのは。

前者は共感してくれる人が多そうですが、後者はちょっと意見が割れそうです。厳密にいえば「評価」かもしれませんが、「事実」として認識している人もいる気がします。

 

繰り返しになりますが、ここで言いたいのは「評価」は「主観」であるが、「評価」を「事実」と区別することは難しいということです。

そして、ということは、「主観」を「客観」から区別することが難しい局面も、少なくないということになります。そのほとんどが意識されていないだけで。

 

「主観」と「客観」限界がぼやけてきたところで、次の議論に進みましょう。

 

3.「具体」と「抽象」

わかるようなわからないような話をしておいてなんですが、ここでさらに新しい軸を導入したいと思います。

それが「具体」と「抽象」です。

 

と、いいつつ具体の厳密で正しい意味を示すつもりはありませんし、できませんから日本語やら概念やらに詳しい人は怒らないでください。

ここではせいぜい情報の細かさとか明確さという程度の使い方をします。

 

そんな曖昧な概念をもちだして何を言いたいのかというと、「事実」にせよ「評価」にせよ具体的な情報は客観的に感じるし、抽象的な情報は主観的に感じる、ということです。

例を示しましょう。

 

「BはAの40秒後にCOした」

「BはAの後にCOした」

前者はBがAの何秒後にCOしたかについて詳細な情報が加わってますからより「具体」的な事実となります。

さて、どちらも客観的に観測できますから「事実」ですが、どちらが客観的かと訊かれれば前者と答えたくなりませんか?

 

「BのCOのタイミングは偽っぽい」

「Bは偽っぽい」

前者はBの偽っぽさを感じた対象について明確な情報が加わってますからより「具体」的な評価となります。

どちらも偽っぽいという「評価」に違いありませんが、後者の方が主観的だと感じるのではないでしょうか。

 

具体的な情報を客観的だと感じるという体験をしてもらったということにして(騙されなかった人はご自身の論理性を誇っていただいて)、次の議論に進みましょう。

 

4.「理論」と理論

今までペンディングにしてきた「理論」の定義について触れるべきときが来ました。

その悩ましさについて開示する過程で、理論というものが日常いかに曖昧かつ乱雑に扱われているかをご説明したいと思います。

 

理論という語を辞書で引くと、「個々の現象を法則的、統一的に説明できるように筋道を立てて組み立てられた知識の体系。また、実践に対応する純粋な理論的知識。」(デジタル大辞泉)と書いてあります。

 

さて何となく理論に分類される以下の言説は、上記定義に当てはまるでしょうか。

①「暴力性のある男はモテる」

②「左足の靴紐から結ぶと試合に勝てる」

③「犯人は現場に戻ってくる」

④「気体の圧力は体積に反比例し、絶対温度に比例する」

 

ここで僕たちは3つの分岐点があることに気が付きます。

第1に、何を体系化したものか。

いずれも現象といえば現象なのでしょうが、①にはモテるという評価が含まれます。モテるかどうかが主観的なのに、それを集約した理論が客観的になるはずもありません。

 

第2に、共有されているものか。

②については、発言者にとっては観測できる法則かもしれませんが、他の人にはそれを知る由もありません。誰からも明らかという客観性の基準からは外れることになります。

 

第3に、正しいものか。

僕は中学校くらいのときに④の理論が正しいと教わりました。しかし③の正しさを正面から謳った言説はみたことがありません(そういう意味では共有されていないとも言えますが)。

正しいかどうかわからないものは、仮説にはなりえても、これに各たる理論としての客観性を認めるのは難しいと言わざるをえません。

 

僕らが何となく理論と名付けているものの多くは、ごく個人的な経験であったりジンクスであったり、あるいは単なる誤謬だったりするわけです。

 

と、いうところまで述べて、この記事内で提言したいことがあります。

圧倒的少数となった正しいものとして認識を共有されている知識の体系たる理論は、もはや「事実」に分類してしまって、ここでは正しい理論ではないが発話者が思考のプロセスとして開示したものを「理論」と呼ぼうではないか、という提言です。

この提案を受け入れてもらえたということにして(受け入れられない人には脳内で「謎理論」などと変換してもらうとして)結論に進むとしましょう。

 

5.「主観」と「客観」

ここまで何を書いてきたかというと、

「誰から見ても明らかな事実と、正しさが共有されている理論だけが「事実」として「客観」に属し、それ以外の情報は「主観」的である」

ということです。

 

こうやって書くとあまりにも当たり前な話ですが、いざ人狼ゲームをプレイしたり観戦していると、存外忘れがちなことでもあります。

が、僕はそれでよいとも思っています。人狼ゲームの本質は情報の分析をすることではなく、意見を述べ、あるいは聞いて説得し、あるいはされるところにあります。必ずしも客観的情報が優れているというわけではありません。

 

ただ注意するとすれば、あたかも客観的な情報であるかのように(疑う余地のないことであるかのように)ラッピングされた「評価」や「理論」に騙されないことです。

 

今回の積み残し

情報を「主観」と「客観」にわけたとて、あるいは丁寧に「事実」「評価」「理論」「主張」にわけたとて、それをどう使うのが良いのかという話をしなければ、人狼を遊ぶ上では何ら意味がないということになりかねません。

 

ということで、これらの情報を使っていかに説得的な言説ができるかについても、近いうちに書けたら良いなと思っております。

あるいはそこでは、人狼がいかに主観的なゲームであるかについて記述することになるかもしれませんが。

 

まあ今回は、今後書くであろう人狼ゲームのあれこれの前提となる整理の一つということで、益体もない話をお許しください。

誰かの何らかの思考の整理に役立てていればという、淡い期待を抱きつつ……。

 

もっとも重要な余談

ここでの「客観」は「誰から見ても明らかなこと」という意味です。

以下の使い方とは違いますのでご注意ください

・他の誰かの目線に立ってする思考や発言を「客観」的とする使い方

・自分だけがもっている情報に依存しない思考や発言を「客観」的とする使い方

・自分の立場を離れて、中立の立場からする思考や発言を「客観」的とする使い方

・理由づけがあり他人が共感しやすい思考や発言を「客観」的とする使い方

・自分自身を観察や評価の対象とすることを「客観」とする使い方

 

集団のなかで全員に共有された主観情報は(後発的に)客観情報となりうるか、なりえないとすれば客観情報を僕らが認識できるか、という問題を残しつつ。

                                     以上