RPが不得意、例えばINTとか

どうも、気づけば労働に追われて記事を書かずに9月を終えた、四扇イドラです。

 

先日、はじめてクトゥルフ神話TRPGのKPをして、KPの難しさを痛感したところです。マダミスのGMはいくらかやってるんですが、やはり勝手が違うものですね。

 

そんななかで、久しぶりにTRPGというものに触れて感じたことをつらつらと書こうかなと。いつか、どこかで書いた「RPが不得意」という話の続きでもあります。

 

 

さて、突然ですが。これを読んでいるあなたの親しい人を想像してみてください。近しい人、でも構いません。心理的に近くなくても、日々接する人でもいいでしょう。家族、友人、恋人、職場の人、あるいはXでいいねしあう人。

そういった人々を想像するとき、そこにある多様性と、同一性に気が付くことでしょう。

 

僕の周辺にも、いろんな人がいます。

それをクトゥルフ神話TRPGっぽくいえば、各種のステータスが、人によってさまざまだなと思うわけです。そのなかでもわかりやすいのが、例えばAPPやSIZでしょうか。外観上はっきりと表れるステータスですから。

少し仲良くなって一緒に遊んだり、あるいは何かしらの作業を共同したりすると、STRやDEXがまちまちであることもまた判明します。

 

ここで思い至ったのが、INTの多様性の乏しさ、です。

中高一貫校にいたという僕の過去の経験も伴ってか、同じくらいのINTだなと思う人ばかりが身の回りにいます。いえ、小中高大と、僕なんかよりよっぽどINTの高い人もいたのでしょうが、その人との仲が継続するということがなかったのです。そして、逆もまた然り。

まあ、他人のINTを数値化するなどという癖が普段からあるわけではなくて、せいぜい会話していて違和感がないなとか、同じ困難を同じくらいの期間で乗り越えているなとか、そういう程度の話なんですが。

 

いつか、どこかで聞いたことがあるのですが、IQが20違うとうまく会話ができないのだとか。と、すると。うまく会話できないと思うことがほとんどない僕の生活では、周囲にいるほとんどの人がこの範囲に収まっているのだろうと、思ったりするわけです。

 

 

ここまで書いて、日々ストレスなく生活できているのなら、そんな幸福なことはないだろうと、そうおっしゃる人もいるかと思います。というか、僕自身、すごく幸運で幸福なことだと思っています。

が、ただ一つ。TRPGという場面においては、この多様性の乏しさが僕に困難をもたらすのです。

 

卓にもよりましょうが、僕はキャラクターのステータスを決めるときに、サイコロを振って決めるという環境で遊んできました。何回かの振り直しが許されることはありますが、2度か、せいぜい3度のサイコロでは、特定のステータスが高かったり低かったりということがままあります。

その値が、自分と大きく離れている場合に、さてどうやってRPすればよいのだろうかと悩むわけです。

 

これは僕のRPの作戦であり癖でもあるのですが、やはり身近な人をイメージするというのが手近な方法なのだと思っています。

力のある人の言動は力のある先輩を真似し、サイズの小さい人の思考は身長の低い友人を真似する。そうしていくと、(RPとしてわかりやすいかは別として)自分のなかで納得のいくキャラクターを描くことができます。

 

さて、察しのいい方は、この記事のすべてが伝わったと思います。

そう、僕の周りにINTが高く、あるいは低い人がいないがために、真似すべき対象が見つからず、RPに苦労してしまうのです。

もちろんアイコン化された天才やバカを演じる術はありましょう。語尾を伸ばす。オウム返しする。早口でしゃべる。それっぽい口癖を用意する。もしかしたらRPとしてはわかりやすいのかもしれませんが、それもやはり、キャラクターに対する納得を深めてはくれないように感じてしまうのです。

はるか昔に距離ができてしまった人々は、その一部分すら理解しないまま遠ざかってしまったので、真似しようにもできません。

結局INTの値は、いくつかのルールが適用される場面を除いては、もはや形骸化してしまっていて、僕の思考のままにシナリオを進めることになってしまいます。

 

 

問題は、しかしまだあります。INT(と、時々EDU)というステータスは、プレイヤーのそれがゲームの進行に大きくかかわってしまうという問題です。

 

僕の知っているTRPGは、通話をつなげてするか、せいぜい机を囲むようにして座ってするものです。そうだとすると、ほとんどの場合において、プレイヤーの筋力も、体力も、体格も、敏捷性も、外見も、精神力も、ゲームの進行において問題になりません。

が、知性は、プレイヤーが十分なそれを有しているかどうかでスムーズな進行がされるかが異なってきてしまいます。

 

具体的な説明をするのが難しいので、やや抽象的な例を出します。

どこかの施設に閉じ込められたとしましょう。脱出するためには何かしらのアイテムをどこかしらに持っていかなくてはならない。そして、そのアイテムの所在のヒントも、持っていく先の情報も、ゲーム的には既に出ている。あるいは、施設のどこに行くと危険であるかもわかっている。

こんな状態で、探索者たちは行動を選ぶよう求められているとします。

 

僕(PL)には何をすべきかわかっているが、彼(キャラ)にはそれがわかっていないだろう状況。あるいはその逆の状況。

そんな状況で、僕たちは迫られることになります。PLの理解を捨てて、キャラの思考に立って選択をするということを。そして、その選択をする人物像を、しかし僕は十分に想像できないのです。

そんな状況が積み重なれば、キャラクターは僕らのもとから少しずつ離れて行ってしまうでしょう。

それは、会話が合わなかった結果、遊ぶ頻度が減っていってしまった級友たちのように。

 

 

この話の解決策は、しかしありません。

僕は自分のINTを自由に上げ下げすることができないのですから。そして、真にINTの違う人とは会話が難しいらしいのですから。

 

嘘をつきました。いえ、すべてを解決できる魔法の言葉があるんですよ、実はね。

「それはそれ。これはこれ」

PLの僕が出したアイデアはリアルINTとして採用しつつ、INTの低いキャラっぽい言動を演じる。あるいは逆に、僕の出せないアイデアはKPに何とかしてもらいつつ、INTの高いキャラっぽい言動を演じる。

そこにある齟齬は、あるいは自分と乖離したキャラへの違和感はスルーしながら、シナリオを楽しめばいいじゃないですか。多分、キャラへの納得感は、後からついてくるのですから。

 

そう割り切れない僕の、うじうじとした実感でした。

あるいは、INTの異なる人物を理解したいという、単なるエゴなのかもしれませんが。

 

 

追記というか、結論というか。

この記事は、いつかどこかで書いたSAN値云々の記事の続きであり、修正でもあります。

あのとき僕は確か、「他人の思考を借りることはできるが、感情を借りることができない」などと偉そうに書いていたと思います。

が、よくよく生きてみれば、他人が思考しているであろうことを勝手に想像しているだけで、他人の思考を借りることだってロクにできていなかった、と。

そう痛感したという、まあそんな話です。