どうも、学業に忙殺されていた(ことを言い訳に諸事を怠けていた)四扇イドラです。
久しぶりの記事なんですが、この2か月何かを遊んだでもなく、記事にできそうな体験をしたでもなく、漫然と過ごしていました。
ということで、この漫然とした日々にぼんやりと考えていたことを、ぼんやりと日記的に書くことによって作文のリハビリにしたいと思います。
ゲーム関連のまあまあ意見のわかれうる話題もあるかと思うので、頭の(議論の)整理とかに使ってもらえればいいのかな? などと、傲慢にも思っています。
※今回は麻雀の話が出てきます。その部分をすっ飛ばしても一応読めはします。その場合、”本題”というところからお読みください。
思考の発端
さて、この記事を書こうと思ったきっかけは、Mリーグというプロ麻雀リーグの試合を視聴していたことにあります(麻雀なんぞやという方はお調べください)。
Mリーグの試合は平日19時からと夕食をとりながらの視聴にちょうどよく、しかもabemaTVで無料で視聴できるという、かなりありがたいコンテンツ。僕自身が麻雀を遊ぶ人間であることもあってわりとな頻度で見てるんですが、これをぼんやりと見ながら思うがありました。
「麻雀って、運の要素強いな」
自分で打ってるときはあんまり気にならないんですが、対局が放送されて各プレイヤーの配牌(最初に配られる手札みたいなもの)や自摸(各ターンにドローする札みたいなもの)を比較できるようになると、如実にその良し悪しがわかってしまう。
そして、基本的には配牌と自摸によって役を完成させないといけないゲームである以上、そこに運が絡めば、勝ち負けにも運が絡むということにならざるを得ない、と。
運ゲー/実力ゲー論争
ということに思い至って世間の声を見てみようとSNSを眺めていると、否定的な文脈で麻雀は運ゲーと論断している言説と、擁護するかのような語調で麻雀は実力ゲーだと主張している言説の双方があり、それぞれの主張者のなかには反対論者を攻撃している人もいました。
しかもその主張者は、麻雀を仕事とする人から見るだけの人まで、勝っている人から負けている人まで、まさに百家争鳴という様相。
この状況に対して言いたいことがあるんですが、その前に「麻雀は運ゲーか実力ゲーか」という論争に対する僕の見解について一応述べておくことにしましょう。
”麻雀は運要素が強い実力ゲー”
麻雀において運要素が強いことは、もはや否定しようがないと思います。
「中長期的には確率が収束する」という言説は、短期的には(1試合単位では)運に左右されるということを認めているに等しいでしょう。
じゃあ完全に運ゲーかというと、首肯しかねる場面があることもまた事実です。すなわちプロ雀士がそうであるように、数年、あるいは数十年にわたり、何百、何千という試合を経た先のプラスマイナスが、ほとんど運によるとはいいがたいのです。「確率は収束する」ので。
運要素が強いにしても、その先(運がおよそ収束したのち)では実力が問われていたという、特殊なゲームということでいいのではないでしょうか。
あえて付言するとすれば、まさに言論者の立場、麻雀との距離感によって麻雀の本質(のとらえ方)など変わって不思議ないということでしょう。
SNSという空間において、アプリで遊ぶ人、プロの試合を見る人、3か月に1回友達と遊ぶ人、仕事にしている人、が均質な言論者としてふるまうこと自体に無理がある気もします。
本題
という、僕の意見はさておいて、ここで言いたかったのは次のことです。
”運ゲーでもよいのでは?”
ある程度簡単な(単純な、プレイヤーに与えられた選択肢の数が少ない)ゲームにおいては、必勝法が確立されてしまったり、単調な行動を繰り返す作業ゲーになってしまいがちです。
ゲームの楽しさを一言で表現できるとは思いませんが、遊ぶごとに状況が変化することも、重要な要素であると僕は考えます。
もちろん選択肢が多ければ、自然と試合ごとに状況が異なり、相手の選択に応じた判断を求められることになりましょう。が、その選択肢の多さは、初心者の参入を阻む壁となりえますし、ゲームの強みたりうる手軽さ(気軽さ)を損ないかねません。
そうすると、運の要素があることによって、ゲーム自体の簡単さを維持しつつ、試合ごとの状況に変化が生まれ、状況に応じた判断という面白さを維持できる、といえないでしょうか。
麻雀で毎回同じ牌が配られるとしたら。人生ゲームで毎回同じ出目が出るとしたら。
それは、練習するとか上達する過程においては成長を実感できて楽しいかもしれませんが、強烈に先行者有利な環境と、繰り返し続けた先の無味な作業感に、ゲーム自体の面白さが損なわれる(少なくとも面白さの性質が変化する)という未来は容易に想像できましょう。
常日頃から運要素の強いゲームは苦手といって憚らない僕ですが、よくよく考えれば面白いゲームにはあちらこちらのは運の要素が組み込まれており、これによって繰り返し遊んでも飽きないようになっているのです。
重要じゃない余談
こうやって観察してみると、プレイヤーの選択(行動)の幅が狭いゲームほど面白くあるためには運の要素が必要となり、ある程度プレイヤーの選択(行動)に幅があって同じ環境における上達だとか、練習というものを想定しやすいものほど運の要素は必須でないとわかります。
(マリオパーティからサイコロの要素がなくなったらゲームとして成り立たない(もはやミニゲームだけ遊ぶのと変わらなくなる)のに対して、マリオカートからランダムアイテムの要素がなくなっても一定のゲーム性は残るということを想像してもらえれば納得してもらえましょう。)
そして、前者においてはもはや運ゲーであることは問題視されず(運ゲーであることが本質であるから)、後者においては運以外の要素(キャラコンやらエイムやら)に視線が向けられているように思われます。そうであるから、多くのゲームにおいては、そのゲームに運の要素が含まれていることが抽出されにくいのでしょう。
そうすると、麻雀において運要素の強いことが否定材料として使われやすいのは、麻雀というゲームでプレイヤーに与えられた選択肢が、多くも少なくもなく、ちょうど運要素が必須な感じはしないけれども、勝敗を左右する要素として意識される程度であるから、という予想がたてられます。
毎ターンおよそ13択から選ぶ。数えられるけど少ないとはいえない選択肢の量。ここが運要素が問題となる分水嶺なのかもしれません。
重要な余談
ところで、「運」って何ですかね。
もっとも難しく、もっとも重要な事項を曖昧にしたままここまで書き連ねてきたわけですが、人によっておよそ使い方の異なる「運」と向き合わないと、さらなる混乱を招くだけでしょう。
まあ、日本語の厳密な定義は国語辞書にゆだねるとして、ここではよく見かける使い方を僕のこの記事での意味合いを整理することで、ご容赦いただきたいと思います。
僕の記事での使い方
「ある事象が生じるかどうかが確率によって定められていること、そのような事象」
サイコロの出目は技術のある人が振れば一定の操作ができる(らしい)ので厳密にいえば運ではないが、まあゲームにおいては同様に確からしいことを建前としているので、運と呼ぶことができる、という感じの使い方。
競馬の勝ち負けは統計を取れば確率っぽく表現できるけど、目の前のレースの結果は確率によって定められているわけではないので、運ではない。
ポジティブな人は運がいい、みたいな言説における運も、僕の使い方によれば運ではないものが多分に含まれている。健康だとか、人が集まるとか、いいアイデアが浮かぶとか。
ある他人の使い方
①「ある事象が生じるかどうかを自分の意志や努力で決定することができないこと、そのような事象」
例文:エイムが悪いからFPSで撃ち勝てるかどうかは運次第
②「ある事象が生じるかどうかをおよそ人間の意志や努力で決定することができないこと、そのような事象」
例文:旅行当日の天気は運次第
③「ある事象が生じるかどうかを決定する因果が判明しないこと、そのような事象」
例文:彼女ができるかどうかは運次第
※(本当に因果が不明な場合(原因のわからない病気など)と、因果が多すぎてその寄与度が不明な場合がありうる。これを区別するかどうかは話者による。)
万事はあらかじめ定められてるとする運命論者や、想定外の良いこと/悪いことを運/不運とする人もいますが、大別すると上記3つのどれかにあたると思われます。
そして、当然お気づきと思いますが、①②③のいずれにおいても運に該当するものもあれば、ある使い方では運にあたるが他の使い方ではあたらないというものもありましょう。(③は②と①に、②は①に、それぞれ包含されるような気もしますが。)
先も言いましたが、厳密な意味については国語辞書にゆだねればいいし、日常会話において「それってどういう意味の運ですか?」なんて問いただす必要はないでしょう。
あくまでも、価値観に近接する言論をするに際して、何を運と思うかが違うと話がかみ合わないこともあるよなあ、くらいに思っておけば。
(この記事では注意深く使いましたが、普段はそんな厳密に使ってないので、この記事を根拠に僕の言論に突っ込みを入れるのはご容赦ください)
後編へ
ところで、この記事をぼんやりとお読みの方は思い浮かんだかもしれません。運の要素がないにもかかわらず、面白いゲームを。
あるいは、僕が好きと宣言しているディプロマシーもまた、その一つでしょう。
運がゲームを面白くする要素というのであれば、運のないゲームを面白くする別の要素もまた、あると思って考えなければ平仄が合いません。
僕はその要素こそ”メタ”であると、そう考えているわけです。
ということで次回はメタについて考えたいと思います。