ディプロマシーを”観戦”するためのお守り

どうも、四扇イドラです。

 

ディプロマシーを楽しく観戦するためのいくつかのお守り的な考え方を紹介していきます。

 

ディプロマシーは嘘をつき、つかれるゲームである。

ディプロマシーというゲームの特徴は、”外交”というフェーズにあります。これはプレイヤーどうしが自由に話し合うことのできる時間です。

”自由に”というのは「どのタイミングで」「誰と」「何を話すか」が自由であると同時に、話す内容が嘘でも真実でもかまわない、ということです。

戦略ゲームの多くがそうであるように、戦略のすべてを開示しては勝てませんし、嘘をつかないかわりに沈黙すれば、結局はすべてを開示するのに等しくなってしまいます。

ここにいう嘘は、実行するつもりのない約束も、他国に関する偽りの情報も含まれ、実行するつもりでした約束を破ることも含みます。

現にディプロマシーのルールブックは、約束が反故にされることを前提とし、あるいはデマの流通も予定しています。

 

少し誇張した例を出すのであれば、鬼ごっこで走るくらい当然のものとして予定されているわけです。

もし茂みに隠れてじっとするほうがタッチされなさそうであれば走らないという戦略もありますが、タッチされないために、あるいはタッチするために走ったとしても、ルール違反とはなりません。

どころか、他のプレイヤーに走って逃げられた鬼に対して、”かわいそう”ということもゲームの性質上ないわけです。(鬼ごっこで鬼役を強制されているのなら別ですが、大人がディプロマシーの参加を強制される場面はおよそ想定できないわけです。)

 

何が言いたいかというと、嘘をついたこと、あるいはつかれたことを、ことさら取り上げる必要はないということです。それは、真実を述べることと、ルール上では同じことですから。

 

勝ちを目指すゲームだが、負け方の指定はない。

ルール上、すべてのプレイヤーは勝ちを目指すように求められています。正確には、18拠点とったプレイヤーが勝者であることが書かれているだけですが、ルールブックの記述はすべてのプレイヤーが勝利を目指すことを前提としています。

しかし、およそ勝ち目がないプレイヤーの取るべき態度について、明確な記述はありません。

主催者が、あるいはGMがこの点について言及しないのであれば、負けを悟ったプレイヤーがいかなる言動に出るかは、当該プレイヤーに委ねられているといってよいでしょう。

もちろん、同卓者や観戦者の快/不快の問題は生じうるし、その観点から各プレイヤーが事実上の制約を受けているということはありますが。

 

ここで重要なのは、勝ち目のないプレイヤーの言動は、本来的には自由であることと、それに対して快/不快の感情を抱くこともまた自由であるということです。

(快/不快の感情を表現することまでが真に自由であるかは、ここでは留保します。)

 

運の要素はないが、運の要素がないだけである。

ディプロマシーを語るとき、よく”運の要素が全くない”ゲームだといわれます。

確かに、最初にどの国を担当するかをランダムに決める場合のその部分を除けば、あらゆる要素はいずれかのプレイヤーの自覚的な判断によって生み出されますから、運の要素がないといってもよいでしょう。

しかしそのことは、ゲームの勝敗がプレイヤーの実力を正確に表現するわけでも、ましてやプレイヤーの人間性に完全に依存するわけでもありません。

 

もちろん、一定の関係はありえます。

交渉がうまい人が勝ちやすかったり、ディプロマシーの知識が豊富な人が有利だったりと、実力には勝敗への影響力があります。また、攻撃的な戦略を取った場合に、より穏健な戦略を取った場合に比べて敵をつくりやすく、負けにつながるということもあります。

 

が、それだけです。

このゲームにはきわめて複雑な心理戦や、面倒な駒の処理が含まれます。それらに関するすべての情報を、限られた時間内に収集してもっとも利益になる判断をするのは、およそムリなことです。たまたま良い判断をすることもあれば、悪い判断をすることもあります。

じゃんけんというゲームが、各プレイヤーの自覚的な判断のみによって構成されているからといって、じゃんけんに負けたプレイヤーが愚かなわけでも、人格的に劣るわけでもないのと似た話です。

 

7人中6人は負けるわけですが、このゲームで高々数回負けたことの一事をもって、そのプレイヤーの能力を判定し、あるいは人格を評価することは不可能と断じて良いでしょう。

そういう、過度に簡略化された言説を真に受ける必要はないという話です。

 

少なくともまだ、正解は見つかっていない。

ディプロマシーは7人それぞれに、わりと多くの選択肢が与えられ、かつ同時手番のゲームですから、手番の時点で駒の動かし方に関する正解を見つけるのは相当困難を極めます。上述の通り、たまたまうまくいくこともあれば、その逆もあります。

 

それどころか、戦略的な(もう少し大きな)視点でいっても、正解と呼ばれる手順はまだ見つかっていません。

僕のブログのほとんどは、この正解を探そうとする試みに費やされているわけで、相当調べたりもしたのですが、”正解”として紹介されている手順は見つかっていません。

せいぜい”堅実な”とか”効率的な”とかが付されたセオリーがいくつかあるのみです。複数あるセオリーのうちどれが正解か、あるいはその中に正解があるのかすら、誰にも分っていないわけです。

 

選択の良し悪しは、多くの場合、情報量と価値判断に依存します。

もしかしたら、ディプロマシーについての知識を豊富に有している人は、その知識をもとにより良いと思われる選択肢が浮かぶかもしれません。そして、それに反する動きをプレイヤーがするかもしれません。

しかし、ディプロマシーは明示的にはメタ的な思考を禁じてはいません。そうすると、同卓者の性格、考え方、もっているだろう知識量についての情報もまた、選択の良し悪しを左右します。

そうすると、そのゲーム、その盤面における選択肢の良し悪しでさえ、これを明確に、かつ断定的に判断することはできないわけです。

 

歴史にIfがないように、ディプロマシーにもIfはありません。

ただ少なくとも、正しい選択をすることの困難さに思いを馳せたら、正解を断定することには、高いハードルを感じるわけです。

もちろん、数ある選択肢の1つを想起し、表現し、あるいは良い選択しだと思うこと自体は、当然に自由なわけですが。

 

もし”正解”を声高に叫ぶ人を見かけたら、その人はディプロマシーの入り口にいる人です。あたたかい目で見守ってあげればよいのです。

 

はじめに

このブログではしばしば、ディプロマシーの戦略的あるいは戦術的な記述を多くしてきました。

それは、ディプロマシーという単純で難解なゲームをプレイしようとする人々の参考になればよいという思いからであり、もっと端的に自分の考えを整理したいからでもありました。

あるいは、プレイヤーとしての思考を獲得することが、ディプロマシーを楽しく観戦することにつながると信じていたからでもあります。

 

ところで、近々、または定期的に、有名な配信者の方々がディプロマシーを遊ぶ(配信する)という機会があり、それを視聴する機会に恵まれつつあります。

そうすると、いちおうルールの説明をみたが、プレイしたことはないし、プレイするつもりもない。ましてや、戦略云々を知りたいとも思わないという人がこれを観戦することも増えるのではないかと思われるわけです。

ごく無名な一人のディプロマシー好きとしてこんなにうれしいことはありませんが、ゲームの特殊性ゆえ、うまく観戦できない人も現れるのだと、愚考するわけです。

 

ということで、ディプロマシーを”観戦”するために持っておくとよいお守りを、ごく無名な一人のディプロマシー好きであり、熱心な視聴者として提示したつもりです。

これらのことが、ディプロマシーの観戦を楽しむ一助となり、あるいはその心理的負担を軽減できていたら幸いです。

 

                                  以上