どうも、怠惰な2か月の間にPCを変えました、四扇イドラです。
えー、前回は麻雀を例に、ゲームに運要素にあったほうが面白いよねという話をしました。
ざっくりいうと、運要素は試合ごとに状況の変化を生み、それに応じた選択(行動)を考えるという面白さをもたらす、という話でした。
今回はメタ要素についても、(メタ要素はゲームをつまらなくなるなどといわれることもありますが)実は面白い要素として重要なんじゃないかという検討をしたいと思います。
運要素のないゲーム
ゲームにおけるメタ要素の役割を考えるために、いったん運要素のないゲームを取り出していきます(それは往々にしてメタの要素が含まれていると考えるわけですが)。
ぱっと思い浮かぶのは将棋、囲碁、オセロあたりでしょうか。
それぞれのゲーム(これらをゲームと呼ぶかはおいておきましょう)において先手、後手をどうやって決めるのかはあまりよく知りませんが、その部分を除けば運が登場する幕はないでしょう。
読みの当たりはずれはあるにせよ、それは(前回定義した意味における)運ではありません。
僕が好きといい続けている人狼やディプロマシーも運がないゲームといえましょう。配役なり担当国なりを決める段階では運の入り込む余地がありますが、それらは前提であってゲームの要素といえるか怪しいでしょう。
(現に、人狼においては初日の能力行使なり会議なりはすでに配られた配役をもとになされ、ディプロマシーにおいては1年目の外交の(あるいはその前に外交方針を決める)タイミングでは担当国は定まり、明らかになっているわけです。)
あるいは最近はやっているVarolantというFPSゲームの5対5で銃撃戦をするメインモードにも運要素はなかった気がします。(マップはランダムですがキャラ選択、武器選択の前に決定されるので、これも前提であるといえましょう。)
これらのゲームを観察するに、運要素は全くないにもかかわらず全く同じようなゲーム展開ということがないように思われます。
人狼においてはCOの数や進行が同じであることはままありますが、それをもってに似たような展開と呼ぶにはムリがありましょう(ムリがあるといってください。一人狼プレイヤーからのお願いです)。
メタと名付けられるものには少なくとも二つある
つぶさに観察してみると、メタと呼ばれるものには少なくとも2種類あるということに気が付きます。そのことを説明するために、ディプロマシーを取り出してみましょう。
ディプロマシーのルールをご存じない方は、ヨーロッパを舞台に陣取りするゲームと認識してもらえれば何となくわかるかと思われます。
ディプロマシーには一つの定説があります。
”盤面上はトルコが強い”
陣取りゲームなので、陣地の配置と初期拠点の位置によって有利不利が当然生まれることになります。ゲームによってはこの有利不利を埋めるような工夫(採れるアクションに制約があるなど)も設定されるのですが、ディプロマシーにはこれがありません。
まあここでは普通に遊ぶとトルコが強いということをご認識ください。
さて、じゃあ同じくらいの実力の人がディプロマシーを遊ぶとトルコが勝つでしょうか。運要素のないゲームで有利不利があれば、最善手を取り続ければ有利な人が勝つような気がします(だからこそ有利と呼ばれるのですから)。
が、実際のゲームではそうとは限りません。むしろ、一番最初に敗退するのがトルコというゲームを何度も見てきました。盤面上強いはずのトルコが運要素もないのに負ける。
ここで作用しているのが一つめの「メタ」です。
すなわち、”盤面上トルコが有利である”ことを知っている他国の担当プレイヤーが十分に実力があり、勝ちを目指しているのであればこう考えるはずです。”先に協力してトルコを抑え込もう”と。
協力と敵対のゲームであるディプロマシーでは有利な人が生まれると、その有利な人を抑え込むための協力関係が発生しえます。
この協力関係こそディプロマシーにおける一つめの「メタ」なのです。
ところで、ディプロマシーは7人で遊ぶゲームです。
全く見ず知らずの、しかもディプロマシーなどという長時間かかる込み入ったゲームを遊びたいという人間を7人も集めるのは至難の業ですから、仲間内で遊ぶことが多いでしょう(というか、見ず知らずの人と遊ぶ機会が多いということはなかなかないような気もします)。
そうすると、あなたはとなりのプレイヤーについて一定の知識を持っていることでしょう。”こいつは信用できるやつだ”とか、”この人は嘘をつくときに声が高くなる”とか。
この、遊んでいる人間の性質や特徴がゲームで生かされることもあるわけです。すなわち「あいつは騙されやすいから裏をかいて挟撃しようぜ」などといって。
このごく個人的な突破口こそディプロマシーにおける二つめの「メタ」なのです。
上に書いた2つのメタが異なる種類のものであることは、あまりにも明らかでしょう。
いうなれば、一つめのメタは「ゲームシステムに対する対応」と、二つめのメタは「プレイヤーの個人的特性に対する対応」ということになります。
もちろん、どちらのメタか微妙なケース、あるいは複合的なメタのケースもありえます。
「ロシアの担当である某氏はマルチタスクが苦手なので南北のどちらかは守りが手薄になるだろう。そして、某氏はトルコが強いことを知っているから陸軍ユニットを南に向ける可能性が高い。よって、イギリスはロシアを気にせずドイツと戦える」などという具合に。
メタはよくないのか
人狼ゲームをよく遊ぶ人間は、メタに対して一定の距離感をもっているものと推察します。少なくとも僕は議論時間中にメタ推理を披露することは控えています。
ではなぜメタはよくないのか。あるいは本当はメタも全然ありで、僕らの忌避は合理的でないのでしょうか。
人狼ゲームにおいては、これに対する回答にも定説と呼ぶべき理由があります。
すなわち”メタ推理は覆せないから”。
確かに占いCOした某氏が「某氏は嘘をつくときに顎を触る癖がある」といわれてしまえば、それをゲーム中に覆すことは困難でしょう。その言説が本当であるか否かにかかわらず。
そうなるとゲーム内の言説から真偽を見抜くゲームでも、自分の嘘や本当の発言を信用してもらうゲームでもなくなり、いかに普段から友人を観察しているかというゲームになってしまいます。はたしてそんなゲームをして楽しいでしょうか。
そうなると、ゲーム内で覆すことができる類のメタは許されてしかるべきです。
「トルコが強いから包囲しよう」という囁きに対しては「そういってロシアが漁夫の利を得ようとしてますよ」と囁きかえすことで覆すことができます。
なんとなく1つめの「ゲームシステムに対する対応」は許されるような気がします。
2つめの「個人的特性に対する対応」についても、将棋やFPSで好みの戦法を読むというのは控えるべきものとはいえなさそうです。
そうなると、人狼ゲームのような一部ゲームにおいて、個人的特性を取り上げることが例外的によろしくないという結論でどうでしょう。
それが正体隠匿ゲームだからかなのか、会話の占める部分が大きいからなのか、はたまた嘘をつくつかないが個人の特性に大きく依存するからなのかは、不明としても。
メタは拮抗を生むという話
僕はメタを前面に出すゲームがあんまり好きじゃありません。とくに2つめのメタ。もちろん高度な戦略の読みあいという使われ方もするんですが、少なくないケースで「某氏が強そうだから警戒しよう」という程度の使われ方をします。
そうすると、ゲームになれていて、あるいは能力が高いことが、かえって不利な状況を作り出してしまうのです。
それは上達するインセンティブを奪く結果に終わりましょう。
が、そういう効果を考慮しても、面白いゲームにメタは付き物だと思います。どころか、必須のものであるとさえ考えています。
仮にメタが一切存在しないゲームがあったとしましょう。
そうすると、システム上の有利不利がそのまま勝率に影響し、不利な側を担当したプレイヤーは勝てなくなってしまいかねません。
あるいは、いったん上達したプレイヤーをそうでないプレイヤーが打ち破るのが困難となって、初心者の参入を阻むことにもなりかねません。
システム上の有利不利が一切ないゲームを作ることは至難の業です(有利不利が運の要素によることはありえますが)。手番制のゲームでは手番の前後によって有利不利が生じえます。また非対称なマップは配置による有利不利が生じます。
こういったシステム上生じてしまう有利不利を自然と補正し、均衡なゲームを作り出す役割を、メタは担っているのです。
さらにいえば、メタは上達する足掛かりになるとさえいえましょう。これは上達するインセンティブを減退させるという先ほどの主張からすると、逆説的になりますが。
というのも、現状のシステムで不利であれば、そのふりを覆すような方法を考えます。それが技術的な克服なのか、戦略的な克服なのかは様々でしょう。
そして、それらの克服によって新たに生じた不利を覆すために、さらなる方法を探求することになります。
そうやって漸進することによってゲームが上達とすれば、メタこそが上達の足掛かりになっているといえましょう。
面白いゲームは運かメタを含むという話
ということで、麻雀とディプロマシーを例に、運とメタがどういう役割を果たしているかを書いてきました。
長々とした文章になってきましたが、結論だけ言えば、運もメタもゲームを面白くする要素として重要であるということを主張したかったのです。
”運ゲー”という言葉がそのゲームを否定する文脈で使われ、メタという言葉がある種のプレイングを批判する文脈で使われ、ネガティブな印象の付きつつある両ワードが、いつかゲームを肯定すべき文脈で使われることを願って。
あるいは、運やメタの理不尽感を嫌う自分を、客観的に眺めつつ。